「シン・ゴジラ」は誰にささげられた映画か?
もちろん初代「ゴジラ」を含めてだ。
映画を観てまだ数日、この熱が少しでも冷める前になんとかこの感動を言葉にしておきたい。
シンゴジラは特撮、劇伴、構成、演出、編集などあらゆる面でタイトでほぼ隙のない見事な出来映えと感じた。
すべてほ褒め讃えたいところだが、すべてに言及していると多分書く途中でギブアップしてしまうので、ここでは僕が初代越えを果たしたと思う理由、シンゴジラの1番の美点、テーマ性、メッセージ性に絞って褒めまくりたいと思う。
注:ネタバレします。
シンゴジラ ≒ ドキュメンタリー
初代ゴジラは戦争や空襲をモチーフにしたものだと言われる。
ではシンゴジラは何をモチーフにしているのだろうか。
それは劇中の描写を見てわかる通り、311東日本大震災および福島第一原発事故だ。
第二形態の初上陸シーンは、ほぼ再現と言っていいほどあからさまな、あの津波のメタファーだ。
そしてその被害が一旦収まり、日を置いてやってきて放射熱線を吐く第四形態は原発事故をなぞらえている。
このゴジラ、人間に対する怒りといった感情や、人間を罰するというような意志といったものが全くと言っていいほど感じられない。
無感情、無意志に被害をもたらすものであり、天災と全く同じ扱いとなっている。
上記の2シーンに流れる音楽はこの映画のために作られたものだが、これも恐怖感や絶望感を上回る悲しみに溢れているように感じられる。
第二形態上陸時で流れる音楽。
ここではカットされているピアノのイントロが非常に物悲しい。
放射熱線シーンで流れる音楽。
映画はそれらのゴジラ災害の収束に必死に取り組む者たちの姿を描く。
この映画の日本は僕たちの住む日本と同じ"現実"だ。
そこに"虚構"であるゴジラが出現する。
キャッチコピー通りの「ニッポン 対 ゴジラ」「現実 対 虚構」
しかし、このゴジラを"現実"である311を投影したものだと考えるなら、虚構 ≒ 現実 とも言える。
そうするとこの映画は「現実 対 現実」つまり「ニッポン 対 311」
つまり、311のドキュメンタリーのようにも見えてくるのだ。
もちろん、これが直接この映画を傑作だとする理由にはならない。
これは単に表現の手法の話で、肝心なのはその上で何を表現するのかということだ。
庵野監督はエンターテインメントという虚構を介して、311の何を伝えたかったのだろうか。
どんなメッセージを込めたのだろうか。
スクラップ&ビルド
「シン・ゴジラ」の中には印象的な台詞がいくつかあった。
うろおぼえで申し訳ないが、大意として書いてみる。
「最善とは言えないが、ベストは尽くしている。」
「ここに辿り着けなかった者のためにも、最後までこの国を見捨てずにやろう。」
これらが311を通して庵野監督が感じたことなのだと思う。
あのような災害と事故に直面しながら、日本人とそれに関わった世界の人たちはベストを尽くした。
そう庵野監督は素朴に感じたのだろう。
そして、こうも言っている。
「この国はスクラップ&ビルドでのし上がってきた。またやれる。」
庵野監督は311という悲劇を通して、日本人に希望を見た。
日本人は過去にもマイナスをプラスに転じてきた、これからもそうできるということだ。
過去とは阪神大震災など過去の震災や災害ももちろん指すわけだが、ここで大きな意味を持つのはやはり太平洋戦争だろう。
つまり初代ゴジラのことだ。
初代ゴジラでは破壊の悲劇が描かれ、オキシジェンデストロイヤーという殺戮兵器を用いてゴジラを葬り去る。
破壊を破壊で、マイナスをマイナスで収めるという図式だ。
もちろんそれは皮肉であり、それゆえに名作なのは間違いない。
対してシン・ゴジラでは、核兵器使用寸前にまで至りながらも主人公たちの努力でゴジラを止めるのだ。
破壊をもって事態を終わらせるのではなく、努力と工夫で乗り越え、さらにその先のプラスの希望を提示する。
初代ゴジラに破壊された日本を再建した日本人ならば、シンゴジラに再び破壊されようとまた再建できるのだ。
これが僕が「シン・ゴジラ」が初代「ゴジラ」の一歩先を行ったと考える理由のひとつだ。
余談。スクラップ&ビルドの概念をゴジラシリーズに当てはめても面白いかもしれない。
一度終わった東宝ゴジラシリーズをシンゴジラがまた再建していくと。
ギャレゴジをはじめとした「ハリウッド映画は核兵器をカジュアルに打ちがち問題」に一石を投じている気がする。
少なくともギャレゴジに対するアンサーではある気がする。
総力戦、そして「ニッポン」とは
シンゴジラの主人公たちは政府中枢の人間たちで、市井の人々の姿は少ししか描かれない。
では「ニッポン対ゴジラ」のニッポンとは政府中枢だけを指すのだろうか?
いや、そうではない。
ヤシオリ作戦では、新幹線やら在来線やらビルやらポンプ車やら、現実的なものがふんだんに使われる。
これはまさに日本という国の総力戦なのだということを象徴的に表している。
具体的に言えば、
- 大量の凝固剤を作る人
- それを現場に運ぶ人
- 線路の状態を整える人
- 電車を動かす人
などなど多くの一般の人の協力があったに違いない。
もっと言えばスパコンを提供した世界中の人や、米軍の協力、フランスの粘りもある。その人たちも便宜上ニッポンに含むとしよう。
では、ニッポンとは事態の収束に直接関わった人ということか?
いや、それでもまだ足りない。
確かに市井の人の姿はほとんどスクリーンに出てこない。
それに時間を割くとテンポが悪くなるし、映画の語り口が散漫になる。
そういうエンターテインメントを作る上での判断だ。
しかし、映画を観て市井の人の印象が全くなかったと思うだろうか?
「シン・ゴジラ」は非常にキャストが多い映画だ。
公開前に話題になったとき、客寄せのためかと思い鼻白んだものだったが、とんでもなかった。
キャストの多さは演出の一環なのだ。
確かに客寄せの効果はあると思うが、それは副次的なものにすぎない。
例えば、前田敦子さん、小出恵介さん、片桐はいりさんがどこに出演していたか覚えている人も多いのではないだろうか。
彼らはある程度有名で顔も売れている役者さんだが、シンゴジラでの出演時間は数秒しかない。
しかし友情出演などではなく、キャストとしてモブを演じているのだ。
有名な役者が名前のないモブを演じることで、観客は数秒でもモブに意識を向けることになる。
するとモブが単なる背景ではなくなる。
その映画の中に無名の人が"いる"、その人の人生が"ある"ということが印象づけられるというわけだ。
彼らが出演していた数秒、彼らは彼らのベストを尽くしてゴジラと戦っていた。
きっとスクリーンに映らないところでも戦っていたはずだ。
ちなみに、僕は2回観てKREVAさんがどこに出ているかを探したが見つからなかった。
しかし、その探すという行為をさせることも"人々"を意識させる狙いなのだ。
もうひとつ、市井の人々を直接描かなくても良い理由がある。
ゴジラが311そのものであるということは先に述べた。
ではその場合、映画の中の市井の人々とは誰か。
それは、映画を観ている"あなた自身"だ。
5年前のあの時期、あなたはどうしていただろうか。
被災地で耐えていただろうか。
瓦礫の撤去をしただろうか。
炊き出しをしただろうか。
ボランティアに参加しただろうか。
募金活動に参加しただろうか。
人を笑わせていただろうか。
節電に協力しただろうか。
誰かを悼んでいただろうか。
自分の仕事を頑張っていただろうか。
みんなそれぞれ自分のできることをしていたはずだ。
自分のベストを尽くして震災と、つまりゴジラと戦っていたはずだ。
「ニッポン対ゴジラ」
ニッポンとは、311を経験した日本人およびそれに関わった世界の人々のことだ。
そこにはまさに"あなた"が含まれている。
そう言えば、計画停電へ協力しようという呼びかけを、エヴァのヤシマ作戦に見立たてて行う動きがあったことを思い出す。
そのようなことも考えると、エヴァの庵野監督がシンゴジラに込めた思いの強さを推し量ることが出来る気がする。
「シン・ゴジラ」は誰にささげられたものか?
庵野英明監督はあなたを含めたこの国に希望を感じて「シン・ゴジラ」を作った。
それはイデオロギー等以前のもっと単純で素朴な、現在および未来のこの世界を生きる人間全体への希望だ。
「シン・ゴジラ」は震災後を生きてきた"あなた"にこそささげられた、ねぎらいの映画なのだ。
間違いなくシリーズ最高の、特別なゴジラ映画だと思う。